Essay  ボルネオ日和

4  雨季 ドリアンをめぐる思索
 

12月、雨季のクチン。この時期ほぼ毎日、夕方になるとどこからか巨大な雨雲がやってきて、どこかしらでバケツをひっくり返したような雨を降らせる。スコール対策で掘ってある深さ1m以上ある側溝は、いとも簡単にその役割をあきらめ、あちこちで小さな洪水を起こす。臭い、深い、蓋がないと3拍子揃った側溝に普段から我慢している身としては、「せめてこんなときぐらい役目を果たしてくれないものか…」と恨めしく思ったりする。

豪雨に見舞われたある日、デパートの前で雨宿りをしながら、ぼんやりとクリスマスのデコレーションを眺めていた。「商戦」などという言葉とはほど遠い、日本に比べるとかなりやる気のないのんびりとしたクリスマスムードだ。
 スコールとサンタクロース…。日本人にとっては違和感をともなうこの組み合わせが、サラワクの雨季の風物詩だ。ガラスにはモミの木が描かれ、白い綿や雪だるまが貼り付けられている。「針葉樹も雪も見たことがない人々に、描かれたものが一体何か分かるのか…。」と南国のクリスマスを心の中でちょっと見下してみる。しかしふと思う。多くの民族が暮らすサラワク州にあって、キリスト教徒は人口の40%を占める最大派閥。たとえ、見たこともない雪を飾りに使っていようが、キリスト教を信仰する人々がクリスマスを祝うことは、東の島国の仏教徒がクリスマスで騒ぐことよりも、ずっと正当ではないか。きちんと牧師を呼んでお祈りをささげる奥地の先住民たちは、仏壇にクリスマスケーキをお供えする我々よりはずっと誠実ではないか…。

 とりとめもない考えから抜け出すと、雨は小降りになっていた。ふと道の向こうに出来た小さなひとだかりに目が留まった。

 注目の主は、道端に並べられた果物だった。
 トゲだらけの風貌と、ずっしりとした重量感、独特の香りとクリームような甘さで知られる「果実界の王・ドリアン」だった。王様のおでましに、街角はクリスマス以上の賑わいを見せていた。
 ドリアンは雨でどんよりとした気分を晴らしてくれる、もう一つの雨期の風物詩。サラワクの人にとってはクリスマスシーズンはドリアンシーズンでもある。11月から1月下旬まで、バンに目いっぱいドリアンを積んだ農家のおじさんたちが、道端に即席のドリアンマーケットを作って売りさばく様子を街のあちこちで見かける。

 日本人の間では罰ゲームのような扱いを受けることが多いドリアンだが、サラワクでは嫌いな人はあまり見たことがない。おじいさんもお姉ちゃんも子供たちも、匂いをかいだり実を振ってみたりしながら、おのおの好みのドリアンを真剣な目で選ぶ。品質にケチをつける客には、店主が気前よく目の前で実を割って確かめさせている。実を割るために使うのはなんと鉈だ。

 ドリアンと共に、活気と甘い匂いがクチン中にあふれ出すのだ。もちろん森も例外ではなく…。

クチン近郊の森歩きをしていたときのことだ。森の中には不思議な甘い匂いが充満していた。トレッキングコース沿いには、見たこともないの果物が無数に落ちており、あちこちで実を食べに来た鳥やリスなどの小動物の気配が絶えなかった。「これが地元民が言うFruiting Season(果期)か」その違いは一瞬でわかったほどだ。

 コースの途中に一段と匂いの強い場所があった。
「ドリアンだ」
 見上げると、10mほどの高さに、大きな野生のドリアンが数個実っていた。はるか頭上から、見つけてくれといわんばかりの強烈な匂いでその位置を知らしめていた。
 私はふと以前に聞いたことのある話を思い出した。ドリアンはオランウータンのために進化した植物だという話だ。

 植物、なかでも熱帯雨林の植物は、動物や虫に大きく依存して、種を残したり、生息地を広げたりする。ラフレシアにはハエ、バナナの花にはクモカリドリといったように、ある特定のパードナーが好むように植物と動物は互いに進化を繰り返し、パートナーシップをより強固なものにしているのだ。熱帯の花や果実の珍妙な形はそれらを求めてやってくる生き物を意識したデザインなのだ。なかにはイチジクとイチジクコバチのように片方が絶滅すると道連れにもう片方も絶滅してしまうほど関係を強めた種もある。そうしないと生き残れないほどに過密な熱帯雨林での競争は厳しいのだ。
 しかし、王様といわれる、あのいかついドリアンでさえそうだということは、頭では分かっていたが、森で野生のドリアンの匂いと姿を目にして初めて実感できたような気がした。
 出会った
ドリアンの樹は30mはあろうかという大木で、実ははるか頭上にあった。鳥か木登りが上手な動物でないかぎり、実のそばに行くことさえできないだろう。しかも棘に覆われた大きな実は、かなりの重量で持つだけでも痛いはずだし、それを克服できたとしても殻をこじ開けるには相当な力が要るだろう。高木に上る技術、殻をこじあける強靭な腕力、カスタードクリームのような甘い果肉を好む人間に近い味覚など、オランウータンにはドリアンを楽しむために必要な要素の全てが備わっているし、オランウータン以外の動物が樹上のドリアンを食べるところなど想像できない。ドリアンのパートナーがオランウータンというのは野生のドリアンの大木を目にして、初めて納得がいった。 
 行動範囲の広いオランウータンの力を借りて、ときに高いところから投げ捨てられたり、ときに糞と一緒に排泄されながら、種子を拡散させ、生息地をゆっくりと広げるドリアン。そのためにドリアンはオランウータンが好む味の実を、オランウータンしかあけられない頑丈なパッケージに包んで、高い位置に実らせる。果実の王様といわれるその風貌は、実はパートナーの好みに合わせて進化した「けなげな進化」とでもいうべき結果なのだ。長い進化の歴史と不思議を思った。

野生ドリアンの味は最高だというのをどこかで聞いたことがあったので、落ちている実がないかその木の下に行ってみた。しかしすでに誰かが食べた後だった。殻と手を拭いたあとのティッシュだけが、無造作に捨てられていた。噂はどうやら本当のようだ。

つい100年ほど前まで、この辺りに生息していたオランウータンは、野生状態ではもはや見ることが出来ない。パートナーを失った果実の王様は重力に頼って、ぼとりぼとりとむなしく自分の真下に実を落としている。運よく、マナーの悪い人間が、種をどこかの森に捨ててくれることがあるかもしれない。そうでなくても栽培種のドリアンは人間を見方につけて大いに繁栄していると、楽観的な見方もできるかもしれない。しかし、あの強烈な匂いと立派な実は、オランウータンという、ボルネオの森のシンボルのためにあるのが真実の姿だとすれば、オランウータンがいない森でむなしく実をつけるドリアンの姿はどこか物悲しい。

 動物と植物が織り成す不思議で尊い事実が永遠に失われてしまうことがないことを、湿った空気のなかぼんやりと祈っていた。



                      Dari Kuching 第12号(2008.1.1)より



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© 2011 Yohei Kambayashi