Essay  ボルネオ日和

6  バリオの風 (原題:クラビットの印象)

 2008年4月、休暇を利用し、初めてバリオハイランドを訪れた。サラワク州第2の都市ミリから内陸へプロペラ機で約50分、インドネシア国境にほど近い標高1000mを超える高地だ。

 目的は二つあった。
 一つは、バトゥ・ラウィという先住民の間で信仰の対象にもなっている岩峰を間近で見ることだった。密林から単独で煙突のようにそそり立つその姿には、サラワクに来て間もないころに古い絵葉書で目にして以来、ずっと憧れを抱いて来た。
 もうひとつは、バリオハイランドの先住民・クラビット族がどんな人たちなのかをじかに見てみることだった。というのも、長年バリオハイランド周辺で研究を続ける友人が「バリオには賢い人が多い。大学の進学率も高いし、自治体の結束や運営能力が高いんだ。」と絶賛していたからだ。
 外界との接触が希薄なボルネオの奥地で、先進的ともいえる習慣や文化を築きあげている民族。そのさらに奥にあるという、切り立った霊峰。帰国を間近に控えていた私にとって、バリオハイランドは絶対に訪れておきたい場所であった。
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 ミリを出発して30分ほど、私はプロペラ機からの眺めを食い入るように見続けていた。初めて目にしたボルネオ奥地の険しい山々と濃密な森に見とれていたのだ。同時に、細々とではあるが、どこまでいってもとぎれない伐採道路や伐採跡に、開発の手が広く及んでいることを再認識させられた。それでも、果たしてこの先に本当に人の暮らしがあるのかと不安に思うほど、窓から見下ろす光景は、人の気配が希薄だった。sBF071117.jpg
 ところが着陸直前、突如眼下に現れた水のきらめきが、そこに人々の営みがあることをはっきりと気づかせてくれた。上空に光を反射していたのは、なんと田んぼだった。眼下には、日本の田舎を思い出させる、どこかなつかしさを感じさせる風景が広がっていた。バリオは陸稲中心のボルネオでは珍しい、水田耕作が行われている土地なのだ。
  飛行場に降り立つと、熱帯とは思えない爽やかな風が吹き抜けた。これまで味わったことの無い、標高1000mの涼しいボルネオ。聞こえてきたのは、風の音と耳慣れない響きを持った言葉だ。肌の色は白く、骨太で屈強な印象の人が目に付く。耳たぶをピアスの重みで長く伸ばした年配の女性もいる。クラビット族の人々との初めての出会いだった。

  今回の旅には、これまで何度か一緒に小さな遠征を繰り返してきた、マレーシア人の友人が同行してくれていた。彼と一緒に、まずは現地ガイドを探しに村の中心へと向かった。
 20分ほど歩いてたどり着いたそこは、中心と呼ぶにはあまりに小ぢんまりとした、小さな公園と数件の雑貨屋やコーヒーショップが立ち並ぶだけの場所だった。とても静かで小ぎれいな、何の特徴も無い田舎の村といった印象だった。
sBF071118.jpg ところが、公民館の横の建物から80歳ぐらいに見える老婆が出てくるのを目にしたとき、その印象は一変した。老婆が出てきたのはなんとインターネットスペースだった。こんな奥地でインターネットが出来ることだけでも驚きなのに、ヨボヨボの先住民の婆さんが活用している…。聞けば、村人によるコンピュータのセミナーなども開かれており、様々な世代の参加者がいるという。
 じつはバリオはサラワクで最初にキリスト教による学校が設立されたという、重要な歴史の1ページを飾った場所でもある。外部の技術の吸収にも抵抗がなく、進学率が高い理由はこのあたりにあるのかもしれない。
 そして意外だったのは、どこにでもあるはずの中華系の店がなかったことだ。あとできいたことだが、村人の生活を守るため、クラビットと婚姻を結んだ者以外、他民族の商売は禁じられているのだそうだ。独自の規則で堅実に自治を保っているのだ。
 さらに驚いたのは、公民館に掲げられた「Bario-rice Revival」という、村の会議を呼びかける立派な横断幕だ。ブランド米であるバリオ米が抱えている問題を、近隣の村々から集まった人々が話し合うのだ。横断幕は手書きなどではなく、明らかに都市部の印刷屋に頼んで作った立派なものだ。これまでも先住民の村はいくつか見てきたが、こうした「立派な」呼びかけは見たことがない。「ボルネオ奥地」「耳長の先住民」という印象にとらわれていた私は、次々と垣間見たクラビット族の実像に驚き、戸惑っていた。

 バトゥ・ラウィへの登山には、リチャードという、屈強で朴訥とした男が同行してくれることになり、翌日の出発を前に簡単に日程の打ち合わせなどをした。
 知ってはいたが、村を出てしまえば、病院も電話もない。地図があるわけでも、整備された登山道があるわけでもない。そもそもどれだけ歩くのかもよくわかっていない。急に心配になり、例のインターネットスペースで、会社のボスに、翌日から3日間の登山に出ることを伝え、宿の女将さんには万が一の場合に心配ぐらいはしてもらえるように、会社と嫁のメールアドレスを教え、連絡をとってくれるように頼んだ。
 幸いにもガイドのリチャードはタフで責任感もあり、日本人である私にも興味を持ってくれていた。同行していた私の友人ともウマがあったようで、怪我や病気にも見舞われることなく、楽しく過ごせた。ただし、獣道にしか見えないような「登山道」やありえないほどの高密度なヒルの道、灼熱の伐採道路、高地の冷たい川での水浴びなど、行程自体は十分に厳しいものだった。
 2日目にようやく目にした憧れのバトゥ・ラウィは、想像以上に凛々しく、美しかった。快晴とはいかなかったが、ときおりのぞく太陽に岩肌は白く輝き、崇拝の対象であること が当然に思えた。しかし、その姿に惚れ惚れとしていられたのは、遠くから眺めていたときだけだった。重い機材を背負い、やっとの思いでその峰の足元にたどり着いたときに目にしたのは、すぐそばまで迫った、森を切り裂く伐採道路だった。

 私は前日のキャンプでガイドのリチャードがいった言葉を思い出した。sBF080506.jpg
 「このあたりの水はだいぶきれいになった。以前伐採業者が入ったときは、突然水が汚くなって、飲み水の確保に困ったんだ。政府は伐採のおかげで道路が開通されるっていうけど、生活が便利になるからといって誰が汚い水を飲みたい?」。物静かな男が続けざまにいった。「開発が必要なのはわかる。でもきれいな森と水が僕らには一番大事なんだ。全面的に反対はしない。ただ、村人の意見を集めて、政府の方針を少し変えたいだけなんだ」。
 木材はサラワクの主要な輸出品の一つだ。もちろんその輸出先の筆頭は日本だ。
 バトゥ・ラウィの足元まで来て、前夜に震えながら水浴びをした、「きれいになった」という泥まじりの川を思い出していた。 


 バリオを発つ日、村の中心部でお茶を飲んでいると、いつもと様子が違っていた。お弁当のようなものも売っているし、老若男女問わず、大勢の人がやってくる。聞けば、今日は近くの小学校の運動会だという。小学校の行事に近隣の村の人々の多くが強い関心をもっている。そんな当たり前のことが、とても新鮮で気持ちよく思えた。sBF071116.jpg
 お茶を飲む人々の中に、とても風格のある老人を見かけた。ベレー帽にサングラス、がっしりとした体。そして10センチはあろうかという長い耳たぶ。「画になる」。
 写真を撮らせてくれないかとたずねると、「NO」ときっぱりと断られた。毅然とした態度に気圧された私の様子を見てとったのか、「10リンギット払えばいいよ」とおどけてくれた。無論ジョークを交えた丁重なお断りである。

                      Dari Kuching 第14号(2008.9.1)より



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© 2011 Yohei Kambayashi